偽物の映画館

観た映画の感想です。音楽と小説のこともたまに。

北山猛邦『月灯館殺人事件』感想

ご無沙汰ぶりの物理の北山先生。
本作は星海社の「令和の新本格ミステリカーニバル」とかいうヤバそうな企画のうちの一冊です。
帯のキャッチフレーズが「全ての本格ミステリを終わらせる本格ミステリ」。
十角館の殺人』の洗礼を受けて以来、新本格にハマり新新本格にハマり探偵小説にハマり、そして今は少しミステリに飽きてきた身としては、気になりつつ怖い気持ちもあり......。

そんな感じで読んでなかったんだけど、フォロワーに勧められて読んでみたらやっぱりヤバかったです。




本格ミステリの神」と呼ばれる大作家の天神人。
彼が所有する「月灯館」には、「トキワ荘」のようにミステリを志す作家たちが暮らしていた。
デビュー作を出してから2年の間、次作を書けずに苦悩する弧木雨論も月灯館を訪れるが、ほどなくして凄惨な連続殺人が起こり......。


あらすじを見ればいかにもオーソドックスな(新)本格ミステリという感じですが、実際には本格ミステリというジャンルそのものとその創作者と読者に牙を剥く鋭利なアンチミステリです。
ただその辺に関してはもうネタバレなしには何も書けないので、とりあえず表面的な感想を。

まず、吹雪に閉ざされたミステリ作家の集う曰くありげな館、繰り広げられるミステリ小説論、変形版七つの大罪の見立てによる連続首斬り殺人、個性的な(人間が描けてない)登場人物たち、そして著者の代名詞の物理トリックの連打......と、ミステリ的なモノゴトがてんこ盛りで心が躍ってしまいます。

......いや、本当に心躍るのだろうか?
こんな話は今までいくつも読んできた。館に閉じ込められて1人ずつ殺されていってそして誰もいなくなる。と言ってももちろん誰かがやってるんだ。どうせ登場人物の誰かが犯人だし、密室だってどうせ置いてあるものをどうにかこうにか工夫して組み合わせたトリックとかいうやつで作っただけだ。

くだらない。

いや、俺だって昔はもっと純粋な気持ちでミステリを読んでいた気がする。ガキだから分かってないことも多かったけどその分一つ一つのトリックに驚いて一冊読むごとに脳みそがジンジンするような興奮を味わったものだ。
それがいつからか、これはあれのパターンだの、ネタが被ってるだのと醒めた味方しか出来なくなって......。
そう、こんな話は今までいくつも読んできた。こんなものをわざわざまた読まされるくらいならもっと人間の描かれたちゃんとした小説を読んでる方が有意義だ。
しかもなんだ、本作のトリックときたら複雑すぎてどうでも良くなってくるようなものかパクりしかないじゃないか......。
こんなもののために、こんなクソみたいな本格ミステリとかいうやつのために俺は膨大な時間を費やして何百冊も読んできたのかよ......!

......という気分にさせられるくらいには、私の中に残っていたミステリファンの部分にグサグサ刺さってきましたね。
作中では堕落したミステリ作家が処刑されるみたいな話なんだけど、それがそのまま堕落したミステリファンである私にも当てはまってしまうというか......。
一つの作品を深く読み込まない「怠惰」、古典作品なんてほとんど読んでない「無知」、書ける人や自分より詳しい人に「嫉妬」し、書けもしないくせに「傲慢」にもこういう他人の感想を継ぎはぎした「盗作」みたいな感想を「濫造」し、、、、「強欲」......はちょっと思いつかないけど、読めない本をとりあえず欲しくなって積み重ねてしまうのは強欲かも。
という感じで本格ミステリ読者七つの大罪に私もまた毒されているので、耳が痛かったです。

そして、あの結末についてとかはネタバレなしには書けないので以下でネタバレで書いていきます。






































































というわけでネタバレです。

まずあのオチについて。
これ、最初は夢川が「弧木雨論」というペンネームを乗っ取ろうとしている、ってことかと思ったんですが、いやそんなしょーもないことなハズもないし、もしかして夢川=白百合=弧木なの〜〜っ!?とだいぶ時差式で気付きました。

一人二役かと思わせて一人三役という、かなり意外なオチなんだけど、一瞬意味を掴みづらい書き方がされていたり、アンフェアと言ってしまってもよさそうな描写の仕方だったりのせいで素直にサプライズエンディングの快感を味わえないようにしてあるあたり意地悪だと思います。

読み返してみれば、冒頭の弧木が館を訪れるシーンからして迎えに行ったはずの白百合と会わずに一人で館まで歩いてきたってのは不自然ですよね。
他にも、弧木が夢川の部屋を覗くシーンだったり、分かりやすいところで言うと、

p59「堂々巡の隣には、夢川蘭」「今夜は全員出席とはならなかったが」

なんかも初読時に軽く違和感を覚えたところですが、読み返して意味が通じてきます。
ただ、1人の人間が3つの名前を持っている状況で、三人称の地の文で明確なルールもなしにその場の作者の都合で呼び分けているのが非常にアンフェア臭い。しかしその破茶滅茶さが魅力でもあるので困った物です。

例えば、p80の白百合、弧木、夢川と呼称を変えていくことで1人の人物の一連の動作を3人分に見せる叙述などは「そんなやりたい放題したらなんでもアリやん!」と叫びたくなってしまいます。

ただ、この仕掛けを明かすラスト1行「弧木雨論です」は、先行する新本格の某作や某作を意識したものであって、そうするとこの人称の叙述トリックも「閉幕」でお馴染み上記の某作の作者の別の人気短編を思わせるところもあり、この仕掛けもまた過去作の再生産というテーマに繋がってる気もして凄味があります。

というか、こんなんただの読者への嫌がらせとしか思えないし、物理トリックを使った動機の「実現不可能とか言わせないため」とかも考え合わせると、真顔の著者が読者に向かって錆びたナイフを振り回しながら向かってきてる感じがして怖いですね......。

あと、物理トリックで本ドミノのやつは『瑠璃城』って元ネタが明かされてますけど、それ以外にもアレは北山さんのアレだし、人称の叙述はアレを思わせるしと、本作自体が初期のいわゆる館モノの北山作品の再生産のようになっているのも皮肉ですよね。

もちろん、作品の中でのことと作者の主張がイコールじゃないことは分かってますが、ついつい「『石球城』への読者の過度な期待が生み出したモンスターだったのかな......」とか思っちゃいますよね。

あと、作中年代が2016年と少し前なのが何でだろうと思ってましたが、2018年に著作権保護期間が改正されて50年から70年となり、

五十年後、私は七十二歳
充分、射程内だ

という夢川の目論見が根本から崩れてしまうという、作中より未来を生きる読者だけに見える悪意がエグかったですね。
まぁ、夢川さんにはクリント・イーストウッドみたいに90代現役を目指してもらうとしましょう......。