偽物の映画館

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太宰治『人間失格』読書感想文

若い頃の方が感受性が豊かである、というのは嘘だ。
この作品を中学生の頃に読んだ時にはなんかヤバいものを読んだという気がしただけでそのヤバさが全く分かっていなかったが、先日何となく自分は人間未満なのだ!とはっきり気付いて、これを読み始めた。最近、メンヘラを始めた。私は型から入るタイプなのだ。

 

 

 

人間失格 (角川文庫)

人間失格 (角川文庫)

 

 

 

今さら説明するまでもないだろうが、主人公・大庭葉蔵の手記という、太宰得意の一人称形式で描かれる本作は、太宰治の自伝的作品とも言われる長編小説である。
幼少期から人間の生活に馴染むことができず、人からそのことを悟られないようにお茶目なフリの"お道化"を演じてきた葉蔵。そんな彼が、青年期には幾人かの女と心中未遂を繰り返し、酒と薬に溺れ、廃人同然になるまでを描いている。

 

 

 

さて、この小説、中学生の時にはヤバいやつが色々ヤバいことして最後ヤバいことになるなんかヤバい話、くらいの認識しかなかった(あながち間違いでもない?)。無理やり読まされた文学作品に対する人生経験皆無の中坊の感想なんて得てしてそんなものだ(今も大した経験はないが)。
だからそのイメージでこれまで別に再読しようという気にもならなかったのだが、今回読んでみて印象はガラリと変わった。

そう、これは共感する小説なのだ!
......って何を今更と言われそうだが、中学生の私はまだ人間に合格していたから当時は気付かなかったのだろう。
もちろん、物語の筋だけ見たら、こんなに女にもてて心中未遂を繰り返した経験などしている人は少ないだろう。非モテ童貞ゴミクズ野郎からしたら羨ましいくらいだ。
しかし、それでも共感できてしまうのは、物語の筋よりも、手記で主人公が語る言葉の一つ一つにこの小説の魅力があるからだろう。大袈裟に言えば、この小説は長編小説というよりも自分語りを積み重ねた詩集やエッセイ集のような読み心地すらある。

ただ、この「手記形式の独白体」であるということには注意が必要に思える。
本書の手記部分(=ほとんどの部分)の地の文は、"主人公の思考"ではなく、あくまで手記に過ぎない。これを書いている時点で主人公は手記の末尾よりも未来にいるわけで、最後まで読めば分かるように、もはや死の間際にあると言ってもいいだろう。
そんな状況でわざわざ自分語りを手記に書くような人間なら、そしてこんなに魅力的な文章を書ける人間なら、絶対にお話として面白くするための誇張をしているはずだ。いるいるそういう奴!
そこを差っ引いて読むと、やたらと「人間の生活がわからない」だの「人の考えてることが理解できない」なんて言っているのは逆に主人公が普通の人間であることの証左にも思える。だってそもそも誰でも普通は人の気持ちなんて分からないし人と関わることは怖いでしょ?恋するという気持ちに自信を持てないのだって普通のことだろう。
極端に言って仕舞えば、そんな「普通の人間がヤバい奴ぶって語る悲喜劇」というところが、本書のキョウカンビリティ(今考えた共感しやすさ的な造語)の高さの秘訣だろう。

そんな本書の中でも私が特に共感してしまったのは見透かされる怖さについてだった。
主人公の少年時代、処世術のお道化として鉄棒をワザと失敗するのを、白痴の竹一くんにだけ見破られてしまうシーンが印象的だが、私が最も気に入ったのはこの一文。

 

尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。

 

私のような中身のない人間にとっては幻滅されることが一番怖いのだ。何も出来ないし何も考えていないのに、何かを期待されて、勝手に期待と違ったからといって捨てられる、そんな恐怖が常にある。だから仲のいい人ほど怖い。自分のことを知られれば知られるほど、このどうしようもない中身の無さに気付かれる。ゴミのくせにいい人ぶるから。「いい人だと思ってたのに」なんてね、言われちゃうんですよ。
作者の趣旨と合っているかは分からないが、この部分を読んでいて、そんな自分が普段抱えている人間関係への怖さを突き付けられた気分になった。

 

 

 

さて、ここまで共感できる青春小説としての側面を見てきたが、この作品の凄さは、読者を引きつけてぐいぐいと先を読ませるエンターテイメントとしての牽引力にもあると思う。
いや、それはこの作品に限らず今まで読んだことのある太宰作品(といって短編いくつか読んだ程度だが)には共通して言えることだ。太宰作品には読者を楽しませるサービス精神(それこそ本作の主人公の"お道化"のような)が強く感じられる。

例えば、冒頭の「はしがき」で第三者の目線から、葉蔵の幼少期、青年期、そして死にかけているような時期の3枚の写真が描写される。これによって、美しい容姿を持っていた男がいかにして3枚目の死んだような男に成り果てたのか、という興味を冒頭から植え付けられ、先が気になってしまう。他にも、「このことが後にあんな形で実現するとは......」といったような仄めかしが何度か出てきて、どう回収されるのか気になって読み進めてしまう。

また、主人公以外にも印象的なキャラクターがたくさん登場し、その人たちとの会話も抜群に面白くて引き込まれた。

会話の場面で特に好きなところが2箇所ある。

 

1つは煙草屋の娘のヨシちゃんとの会話である。
いつも酔っ払っている主人公に、彼女は八重歯を見せて笑いながら飲み過ぎよと忠告する。それに対して訳のわからない戯言をまくし立てる主人公だが、ヨシちゃんは相手にしません。
「この野郎。キスしてやるぞ。」
とセクハラまがいの事を言う主人公に、ヨシちゃんは一言
「してよ。」
......こら〜っ!してよって!八重歯のある処女に「してよ」と来られたら男としては堪ったもんじゃない。これに対する主人公の
「馬鹿野郎。貞操観念、......」
というツッコミも絶妙。1番萌えたシーンである。

 

もう1つ好きなのは、悪友の堀木との言葉遊びの場面だ。
例えば、名詞を悲劇名詞と喜劇名詞に分ける遊び。
「煙草は?」「トラ(悲劇)」「死は?」「コメ(喜劇)」てな具合。私も友達がいたらこんな遊びしてみたかった。
しかしアント(対義語)を考える遊びとなるとなかなか難しい。
「花のアントは?」と聞く葉蔵に対し、堀木は様々な単語を挙げるがどれも不正解。葉蔵はヒントを出す「この世で最も花らしくないものだよ」そして堀木センセイ気付く「なあんだ、女か」
ここまでは冗談みたいなものだが、続いて発される「罪のアントは何か?」という問いに、葉蔵は答えを出せない。罪の対義語とはなんなのか?罰?いや違う......。「ツミの反対はミツさ」と茶化す堀木に強く苛立ってしまうほど葉蔵はこの問いに心を乱されるが、結局作中で答えは示されない。
この問いかけについて、人からしっくりくる答えを聞いたことがあるが、他人の考えを偉そうに書くのも恥ずかしいので書かないでおく。謎が残ることで読み終わった後も読者のアタマは作品に囚われたままになってしまうあたりも上手いなぁ、と。

 

そんなわけで、暗くて重いようなイメージが強い本作だが、このように、読んでいて普通に面白いサービス精神も持ち合わせているからこそ今も読者から愛され続けているのだろうと思った。

 

 

 

さて、最後にラストについて。
ネタバレしたからといってつまらなくなる小説でもないけれど、一応ラストに触れるので未読の方はご注意を......。

手記のラストで、葉蔵は自らを「人間、失格」と断言している。

 

いまは自分には幸福も不幸もありません

 

というように、この「人間失格」とは幸福も不幸も捨てたことを表すのだろう。

幸福と不幸については、カフェの女給ツネ子とのシークエンスにも語られる。ツネ子と寝た夜について、葉蔵は手記のうち肯定的に使う唯一の「幸福」だと書いているが、その次の朝のシーンではもう

 

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした

と来る。


しかし、これに似た気持ちは誰にでもあるのではないか。そもそも幸福とは終わるものである。ずっと幸せなままではあられないだろう。そして、「幸せが終わる」という不幸ほど苦しいものはない。それならいっそ幸せを捨ててでも不幸になりたくないと思わねっすか?私はそう思う。どいつもこいつも「何もないよりは辛い思いしてでも幸せを追いかけろ😤」とかゆーじゃん?いやそーゆーのいいからってカンジよね。

 

そして、手記が終わった後、あとがきのラスト一言も印象的である。葉蔵を知るバアのマダムの一言、

 

私たちの知ってる葉ちゃんは、とても素直で、よく気が利いて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、......神様みたいないい子でした

 

これは、葉蔵が誰からも真に理解されないままであったという意味に取ることも出来るだろう。
しかし、これは言い換えれば、葉蔵自身が人から見た自分の姿を理解できていなかったとも言えるのではないか。
葉蔵がああなってしまったのは人に抵抗できない弱さのせいですが、それは裏を返せば他人を否定できない優しさとも取れるのではないか。そして、そんな優しい彼が「人間失格」であるということは、人間失格じゃない人間の方がおかしいということにはならないか。ラストのマダムの一言は、人間失格に生まれついた太宰からの、偉い人間様が牛耳る世の中に対する痛切な皮肉のように思えてならない。

 

こんなに長々と書くつもりはなかった。これだけの名作だから私が書いたことくらい他の誰かがとっくに言ってるだろう。そう思うとこんな稚拙な感想文を長々と書き連ねたのがとても恥ずかしくなる。しかし、それでも、私は私なりにこの物語を自分のものだと錯覚させられてしまい、何番煎じでもいいからとりあえず何か言いたいという気分にさせられてしまった。やはりそれだけの力を持つ作品だと思うし、だからこそ今なお根強い人気を集めているのだろう。今みたいな死にたい気持ちの時にこれを読んで良かったと思う。少し救われた。いや嘘。しんどい。