偽物の映画館

観た映画の感想です。音楽と小説のこともたまに。

スピッツを選んだ  ーー伏見瞬『スピッツ論』の感想ではありませんーー

スピッツ論』という本を読みました。

感想を一言で言うと、辛かったです。

私のアイデンティティの半分くらいは「スピッツファンであること」です。

スピッツに出会ったのは小学生の時。親がサイクルヒットや当時の最新作だった『さざなみCD』を買ってきて聴いていたのがきっかけです。
当時はまだ子供だったので歌詞の意味とかも全く分からず、ただ「宇宙の風」とか「夢を渡る黄色い砂」とか変な言葉の並びが面白かったのとメロディのキャッチーさと美しさからハマって聴いたり歌ったりしていました。
中学生になると、近所のレンタルショップのレンタル落ちコーナーで200円くらいになってた『ハヤブサ』というアルバムを初めて自分のお小遣いで買って、そのサウンドのかっこよさに(子供なので「早くてジャカジャカしてる!」程度ですが)シビれて、中古屋で頑張ってCDを集めていきました。

中学生の当時もまだ歌詞の意味とかは分かっていなかったですが、それでも所謂「死とセックス」の匂いを嗅いで「やっべえな」となり、一時期は怖すぎて聴けなかった時期もあり、それを超えると今度は「スピッツの裏の顔を知っているのはこの学校で俺だけだ」という謎の選民思想に取り憑かれてバンプとかラッドとかレンジとかを聴いてる同級生を見下し始めました。
それは友達が少なく、露骨にいじめられてこそいなかったもののクラスで最下層にいて上の人たちに怯える生活をしていた私のせめてもの反抗だったのかもしれませんが、とにかくその時からスピッツは初恋のあの子と共に私の頭の中心を占めるようになり、スピッツが俺のすべてと言える時期が続きました。
それは高校に入ってからもしばらくはそうで、高校ではガチで部活以外に友達もいなかったので音楽を聴くか本を読むしかすることがなく、一年生の頃は毎日登下校の往復1時間半程度をスピッツを聴くことだけに費やしたからたぶん全ての曲を最低でも100回は聴いてます。
この時に出たのが『とげまる』というアルバムで、初めて新品でリリースされたばかりのスピッツの新作を買うという体験をしました。
もちろんフラゲ日に買ったのですが、その日はもう学校休もうかと思ったくらいで授業にも集中できず、放課中もスピッツが出てるラジオを聴いてて授業が始まってるのに気づかずに隣の席の明るくて私みたいな底辺ゴミにも話しかけてくれる女の子に「授業始まるよ」って注意されたりしたし、あの子のことも今思えば少し好きでした。
そんなこんなで帰り道に『とげまる』を手にした時にはもう嬉しくて涙が出てきて、帰ったらラジカセ抱いて寝るまで流してて怒られました。

そこから徐々にスピッツ以外の、アジカンとかフジファブリックとかサカナクションとかにまハマっていって、一旦はスピッツ熱も落ち着いていきます。ちなみにこれらのバンドは別にスピッツ経由で聴き始めたわけじゃないけど後からスピッツに影響を受けていると知って「やっぱ俺はスピッツで出来ているんだ」と思い知りました。

それでも、3年後に『小さな生き物』が出た時もやはり恋をするように発売を心待ちにし、聴いて「最高だぜ!」と思ったものですが、その頃にはもう他の好きなバンドの数も10を超えていてそちらを追いかけるのにも忙しく、『とげまる』の時ほどは聴かなかったなぁ。
そして『醒めない』が出たのが就活中。中学の頃にクラスから疎外されていた私は今度は社会から疎外されつつあり、要はこのアルバムが出た7月の終わりの段階でもゴミみたいな会社から一つ内定が出ているだけで実質受かったことがない状態で途方に暮れていたわけでありまして、そんな時にこのエモい作品が出たのでもう泣きましたよね。
そんな感じでそのゴミみたいな会社に入ることになり、周りから馬鹿にされ、何度か失恋もしてその時には「スピッツ憂」(※自作の暗い曲を集めたプレイリスト)を聴いて死にたくなり、はじめて彼女(今の妻)ができた時には「スピッツ↑」(テンション上がるプレイリスト)を聴いてヒャッハーし、やがて今やってるスピッツ全曲感想シリーズを書き始めてまたスピッツの魅力にやられ......というのを経て現在に至っています。

これまでの人生で特につらいことはなかったし、実家も裕福で親から愛情をかけて育てられてきた何の不満も抱き得ない人生でありながら、しかし自分は人間の偽物なのだという感じがどうしても拭えず、そういう気持ちにスピッツは寄り添ってくれるので好きなんです。大好きなんです。

それなのに、出てしまったんです。『スピッツ論』という本が。
私が自分の中でどれだけスピッツを好きだと思っていようと、あるいはもう言ってしまえば俺がこの世で1番のスピッツファンだと思ってたし、ライブで「マサムネ〜きゃーきゃー」とか言ってるクズどもに何が分かるんだクソが!くらいは思ってますけど、なんせ音楽のことなんか全然わかんないし楽器もやったことないし洋楽もダフトパンクしか聴いたことないからスピッツの音楽が何をどうしているのか何にも分からない。それに頭も悪いから歌詞がどういう意味なのかも全然分からない。その私がスピッツのことを理解し得ないということを、このスピッツをあらゆる角度から批評し尽くした『スピッツ論』という本は明らかにしてしまいました。

要するに、「俺よりスピッツのことを分かってる奴がいる。そう、そういう奴がこいつ(著者の伏見さん。ごめんなさい)以外にもいくらでもいるんだろう」ということを突きつけられてしまったから辛いのです(ようやくこの記事の1行目を回収します)。

もちろん本書の内容はめちゃくちゃ面白かったし、スピッツを歴史や音楽史や政治や他の音楽や他のカルチャーと結びつけながら《分裂》というキーワードで紐解かれていくのに幾度「なるほど!」と膝を打ったかしれません。これは全てのスピッツファンが読むべき一冊です。
そして、終盤や後書きから著者のスピッツへの愛が溢れ出て迸って、これはもう自分が書いたのかと錯覚してしまうくらい共感してしまったし、完敗で敬服です。

しかし、自分よりエラいスピッツファンがいることを突きつけられただけでなく、スピッツの凄さも改めて突きつけられてスピッツを好きでいることに誇りを持てる本でもありました。

私がスピッツを好きなのは、初めて見たものを親だと思う理論に基づいた偶然に過ぎないのかもしれませんが、それでも親が聞いてた音楽だって他にもビートルズとかB'zとかいくらでもあるし、その中でスピッツにビビッときたのは私の感性なんですよね。
スピッツファンは選民思想が強いと言いましたけど、スピッツに選ばれたんじゃなくて子供の頃の私がスピッツを選んだんだと、何も分かっていないながらに鋭い嗅覚でスピッツを見つけたあの頃の自分に感謝したいです。



と、今回は自分語り形式でスピッツへの愛を語りましたが、来年アルバムが出るならその時にはスピッツを深く知らない人にスピッツを紹介するような記事も書けたらと思います。