偽物の映画館

観た映画の感想です。音楽と小説のこともたまに。

堀江敏幸『雪沼とその周辺』

リーガルリリーの海さんがInstagramで紹介していたので読みました。

「雪沼」という架空の寂れた田舎町を舞台に、そこに暮らす普通の人々の平凡な人生の哀歓を描く7編の短編集。

作中に出てくる川の名前を調べると栃木にあり、近くにはスキー場もあり、東京から車で行けるようなことも書いてあるので恐らく「雪沼」のモデルは栃木らしいです。
ただ、個人的には子供の頃によくスキーをしに行っていた長野の風景を思い浮かべて読みました。当時、こんな山の奥にも人が住んでいてそれぞれの生活があるんだと子供ながらに感慨に耽ったものですが、その想像の生活に色が付いたような気持ちで読むことが出来ました。
スマホSNSどころかコンビニやスーパーにも行かないような、悪く言えば時代に取り残されたような人たちの単純な暮らしにこそシンプルにして複雑な人生の味わいが直に感じられます。各話はかなり短いんだけど、作中で描かれることは彼らの人生の中で氷山の一角であり、一角を描くことでその水面下の氷山本体までを読者に読ませるのが凄かったです。短い本の割にゆっくり味わってしまって読むのに時間がかかっちゃったくらい。
こんな暮らしがしたい、と言って簡単に出来るものでもないけど、本の中でだけでも現実社会のスピード感から離れてゆったりとした時間が流れる雪沼に逃避できて良かったと思う。そこにはもちろん悲しみや苦しみもあるけど、それらも雑に消費せずに自分のものにしている感覚が良かったです。

以下各話感想。


「スタンス・ドット」
間も無く廃業する寂れたボウリング場を訪れた最後の客はトイレを借りに来た若いカップルで......。

ボウリング場の老主人が主人公なんですが、廃業間際の現在にカットバックで回送が入り、かつてはバリバリに働き遊んでいた姿が垣間見られます。そのせいで現在の静かな暮らしとのギャップで寂寥感が強まって読んでいて常に無常を突きつけられるような切なさがありました。
しかし彼自身の心境は穏やかなものではあって、その全て受け入れてあとはひっそりと人生の終わりを待つというような姿にはどこか安心させられます。
しかし、そんなボウリングのピンの音だけが響くような静かなお話なんだけどラストは静かなままに激エモくて感動でぞわぞわしました。


イラクサの庭」
亡くなった料理教室の先生の生涯とその最期の言葉について、生徒だった女性らが思いを馳せるお話。
彼女が遺した「コリザ」という謎の言葉をめぐる一種のミステリのような興味がありつつ、独身者で他所者だった彼女の孤独と、それでも料理教室を通じてこうした人との繋がりを持っていたことの暖かさを感じながら忘れてた頃にふわっと謎解きがされることで一気にその人生が立体的に見えてくるのが良かった。


河岸段丘
IT化を拒む職人たちのお話。

分解して組み立てられるくらいの、単純だが融通のきく構造が、機械にも、社会にも、人間関係にも欲しい
単純な構造こそ、修理を確実に、言葉を確実にしてくれるのだ

効率だのタイパだのと言いながらどんどん複雑なシステムが増設増設されていって付いていけない人間にとっては余計時間も労力もかかるみたいな感じでどんどん煩雑になっていく今の世の中。時間に追われて時間を切り詰めようとするあまり切り刻んで細切れの時間が知らん間にパラパラと吹き飛んでいく生活の中で彼らの不器用だけどシンプルで実直な生き方に強烈に惹きつけられてしまいます。


送り火
道教室を営む夫婦のお話。どんなに深い悲しみを経験しても、その後の人生でずっと悲しみ続けているわけにはいかない、でもその悲しみは常にそこにある......そんな感じの内容で、やろうと思えばいくらでもロマンチックなラブストーリーに、あるいはドラマチックで泣ける話に出来そうな物語をやはり淡々と描いているのに強烈に好感を抱いてしまいます。


「レンガを積む」
東京のレコード屋で働いていた主人公が雪沼に自分の店を持つお話。
好きな仕事であっても会社勤めというもののストレスはあり、そこから逃げるように雪沼に来るんだけど、逃げた先で自分らしく生きられるというのが素敵。レコードがある暮らしに憧れてしまいます。


「ピラニア」
料理が上手くなろうというような向上心はあんまりないけどお店を続けてる料理人のお話。
やる気マンマンという感じじゃなくても実直にコツコツと日々を積み重ねて生きていくこと自体が尊く、たぶん本書でも最もドラマチックな出来事が起こらないお話ながらこんだけ心に染みる良い話になってるのが凄い。何者でもなくただ生きていることを肯定してくれるような優しさにほだされてしまう一編。


「緩斜面」
会社が倒産し、友人の紹介で前職とは何の関係もない消化器の営業の仕事をはじめた男のお話。
最終話ながらやや印象が薄いですが、他人のふとした思いつきというかノリみたいなもので人生を左右されてもなんだかんだそれでそれなりに上手くいく、というお話で読み終わると別に今の仕事や今住んでいるところを離れてもいくらでもやっていけるよなという、大袈裟に言えば生きていく力を貰える短編。アガサ・クリスティの意外な使われ方にも笑った。