偽物の映画館

観た映画の感想です。音楽と小説のこともたまに。

九段理江『東京都同情塔』感想?

前作『schoolgirl』がめちゃくちゃ良かったので新作が出たらすぐ買って読もう!と決めていた著者ですが、まさかの発売前日に芥川賞を受賞してどこの本屋に行っても売り切れ!というのを経てしばらく待ってからようやく買うことができました。


ザハの国立競技場が建設されたもう一つの東京。犯罪者を同情すべき人"ホモ・ミゼラビリス"とし、刑務所に代わる「シンパシータワー・トーキョー」が建てられることになった。
建築家の牧名はタワーのデザインを考えながらも、犯罪者に同情するというコンセプトに共鳴できずにいて......。


先日Twitterのフォロワーに会った時に、「あなたはTwitterの使い方が下手だからTwitterをやめた方がいい」と言われてショックを受けました。彼が言うには、私は自我をインターネットに奪われつつあるんだそうです。
その時は「わけのわからん言いがかりを付けやがってこの酔っぱらいが」と思ったのですが、考えてみると確かにTwitterを始めてからというもの私の脳内の独り言はTweet用に加工されたものになっていることに気がつきました。頭ん中で常に大量のTweetの下書きを生成していて、その中でTwitterを開く時までに覚えていたものをそのままTweetするような感覚、ですね。しかしTwitter10年やってるうちに完全にそういう風になっちゃった私の言葉は、もはや無意識のうちに「いいねが付くかどうか」という判断基準で紡がれてしまっていて、それは確かにインターネットに自我を売り渡しているようなものなのかもな、と思った。

というのがこないだのオフ会の感想なんですが、本書の感想もまぁ似たようなもんでありまして。
主人公の建築家牧名はTwitterヘビーユーザーではなさそうでむしろTwitterを軽蔑している感じはありますが、それでもTwitterについて語るシークエンスがあるくらいなので見てはいるんでしょう。彼女の頭の中にも私と同じように脳内検閲官がいて、彼女の言葉は脳内ですらもコンプラセーフ/アウト判定を常に受けながら形成されていくわけです。しかし、そうやって適切かどうか、いいねされるかどうかという鋳型に言葉が嵌められ、不適切にならないように言葉の圧を弱めようとして「強姦」は「レイプ」に、「生活必須職従事者」は「エッセンシャル・ワーカー」に「犯罪者」は「ホモ・ミゼラビリス」にと、見かけ上シュッとしたカタカナ言葉に置き換えられていく。そして言葉と同じように私たちの住む街も清潔で安全で無臭で無機質なものへと変わっていくのを見ている。そこではマニュアルに従えない者、カタカナ言葉を覚えられない者は取り残され取りこぼされていき、若い私は今はついて行けているけどいつああなるかと思いながらファミレスでタッチパネルで注文ができずに怒る老人を眺めている。

本の感想を書くつもりだったのに全然感想になってないですし本書の趣旨に合ってるかどうかもよく分からんくなってきたので軌道修正すると、本書は序盤はそんな建築家の牧名さんの脳内語りで進んでいき、建築家という職業のプロに密着したお仕事小説みたいな楽しみ方も出来るようになっています。
そして、「シンパシータワートーキョー」なる(非)刑務所を打ち立てんとする日本という国を外に視点から見る自称レイシストアメリカ人ライターが出てくるあたりから皮肉なユーモアが加速して俄然面白くなりにやにや笑いを堪えながら読むことになりました。
著者が芥川賞の受賞会見で本書の文章の5%程度においてAIを使用していると発言したのも話題になりましたが、AIを批評、批判するためにAIを使ってみせるある種の捻くれや反骨精神みたいなものは前作の「schoolgirl」や「悪い音楽」に感じた魅力と同じものに感じて嬉しく思いました。

作中で明確な答えとかは出ず、言葉をどう使えばいいのか?寛容さとは?SNSとどう向き合えばいいのか?などの問いが投げかけられ、自分の言葉の欺瞞や虚飾を突きつけられるばかりで私は途方に暮れてしまったのですが、

Twitterは本来独り言をつぶやくために生まれたサービスだった

という言葉が印象に残って、とりあえず独り言用のTwitterアカウントを作って少しずつ体内のインターネット成分を抜いていきたいと思っています。いや、きっぱりTwitterやめればいいんだけど、そこはまぁ人間関係とかもあるし正直フォロワー以外に友達がいないから失うのも困るしね......。