偽物の映画館

観た映画の感想です。音楽と小説のこともたまに。

ドッグヴィル

ミッドサマーの影響で、村がヤバいという本作を観ました。そしてハマってしまい、ひとりラース・フォン・トリアー映画祭をしています。死にてえ......。




山奥の貧しい村ドッグヴィルに、マフィアに追われる美女グレースが迷い込んできた。作家志望の青年トムは彼女を匿うことを提案し、グレースは村人たちのお手伝いをしながら少しずつ村に馴染んでいくが......。



ネタバレなしVer。

まずはこのセットに驚き。
壁のないピロティみたいな空間を、白線で区切って「誰々の家」みたいに書いてあるだけの粗末な舞台。
舞台劇のような、とも言えるし、ナレーションによって心情まで説明されるところや時折入る俯瞰のショットも含めると、監督という神が心理実験のために作った箱庭のようにも感じられる。
冒頭でチェッカーかなんかのボードゲームをやるシーンがあるのも、村の人たちをコマとして動かす作者の存在を示唆しているようです。

序盤は閉鎖的な村人たちが徐々に余所者のグレースを受け入れて親しくなっていくという良い話。
でもでもでもでも、そもそもが匿う⇔匿われるという対等ではない関係なだけに、村の人たちは彼女に対して絶対的に優位。そうなれば、娯楽も少ない田舎のこと、どうなるかはお察し......という感じで。
お察しではありつつ、冷徹に心理描写を行っていくナレーションのおかげで登場人物の浅はかで醜い考えが手にとるように分かってしまう。......いや、手にとるように分かってしまうのは、自分も同じことを考えてるだろうからだと気付き、嫌な気持ちになります。そりゃそうだろ?ニコールキッドマンに対して完全優位な立場にあれば男なら絶対やるし、それを見た女なら絶対いじめる。それも、正当化して、もしくは、自らの正しさを疑わなず確信犯的に。
簡素なセット、地味な展開、3時間の長さでありながら、じわじわと確実に心を抉っていく描写のせいで目を離せないのもうんこ。

そして、ラストの「傲慢さ」に関する会話も刺さりますね。それすら、傲慢でしかないという。
そんでも、エンディング曲があれなのも皮肉っぽくもこれまでの鬱屈が反転してちょっとスカッとするのも事実。
なんせ、人間であることだけでもう醜さが内包されている。犬の村とは言いながらも、犬に人間ほどの思考がないのならば犬の方がいくらもマシだったり。でも何もかもどうしようもないことならばもうなにも考えずに、最高にアガる曲で踊れば良いのさというやけっぱちな気持ちにもなり。

なんせ、どんな感想を抱こうとて、本作のメタ的な視線によって私の感想さえも見透かされてしまうような気がして、何も言えねえわ。結構いろいろ言ったけど。


そんなわけで、あとちょっとだけネタバレありで書きます。↓
























グレースに対する村人たちの仕打ちが、あくまでも正当化の逃げ道を持って行われるという、彼らの弱さに同族嫌悪を抱きました。
トラックの運ちゃんの、「金を払ってもらわなきゃいけないけど金を持ってないだろうから、体で払ってくれてもいいよ」みたいな、そんでもって「やりたくてやってるわけじゃないから」っていう、浅ましさ。こんな部分が自分の中にもあると思うと絶望的。

それだけに、ラストでまさかの「ヤバいやつに手を出しちゃってリベンジされる系スリラー」になるのには正直ちょっと笑っちゃいましたね。
でも、グレースは最初は復讐するつもりはなかったんですね。彼らはこの環境にあったからあんなことをしたのであって、悪いのは環境だと言うのです。
これはニュースで見かける猟奇殺人の犯人とかでもそうですよね。虐待されてて、いじめられてて、だからそういうことをした、と。
だから同情の余地がある。ってのを部外者が言うのは簡単ですけど、本作では当事者のグレースが言っちゃうんですよね。
でも、パパはそんな彼女を傲慢だと言う。
それまで、私はグレースちゃんなんて良い人なんだ......と思ってたけど、こんだけ良い人であること自体も傲慢だとしたら、どうせいっちゅうねん......というね。

ともあれ、最終的に村は焼き討ちにされちゃいます。
村人の醜さに自分を投影していただけにいたたまれなさもありつつ、とはいえ主人公であるグレースに肩入れしてもいたので痛快でもあります。
環境が彼らをこんな風にしたなら、その環境ごと無くしてしまえばいい、と言わんばかりの解決は、敷衍すれば人類が滅びれば悲劇はなくなる、ということにも通じます。
そして、皮肉であるのは承知の上でエンディングのノリノリなあの名曲で踊りました。歌詞にニクソン大統領が出てくるとこでほんとにニクソンの写真が映るのには笑った。