偽物の映画館

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メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』読書感想文

先日、映画『メアリーの総て』を(もちろんエル・ファニング目当てで)観て、本書『フランケンシュタイン』がなんとなくイメージしていたような怪物が人を殺しまくるスプラッタホラーなんかではなくて重厚な人間ドラマであるらしいと知ったので気になって読んでみました。

ちなみに読んだのは新潮文庫版。新訳で読みやすいらしく、角川ほど表紙がダサくなかったので......。

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)



※一応、展開などのネタバレを含むので注意。





なんと、本書が最初に出版されたのは1818年。今から200年も前なんですね。
個人的には、趣味で読んだ小説としては上田秋成の『雨月物語』に次いで2番目に古かったです。
しかし、凄えのは(新訳のおかげもあるのでしょうが)今読んでも全然古びずに面白く読めたこと。

なんせ、そもそも、数年前まで「フランケンシュタイン」が怪物の名前だと思ってたし、低俗で通俗な怪奇小説だと思ってたんでね......。そのイメージとのギャップにも驚きましたね。

訳者あとがきには、未だに未解決の普遍的なテーマを描いているから古びないみたいなことが書いてあり、非常に納得しましたが、それだけでなくそもそもエンタメ小説として読んでも面白いんですよね。


本作は、ヴィクター・フランケンシュタインという青年が科学への探究心から人造人間とも呼ぶべき怪物を作り上げてしまい、自ら作り上げた怪物を斃すために奮闘するというのがメインの筋立てで、ヴィクターの生涯を描いた一本のストーリーとしても読めます。
しかし、それだけではなく、本書はなかなかに複雑な入れ子構造にもなっています。
まずは語り手でヴィクターと知り合い友人になるウォルトンという男の書簡から物語が幕を開けます。そして、彼に対してヴィクターが語る怪物との因縁の話、さらには、その中で挿入されるヴィクターへの怪物の語り......というように、なかなか入り組んだ構造になっていて、その展開の激しさだけでも読んでて退屈しませんでした。

また、ヴィクターと怪物の内面を描いた文芸作品でありながら、様々なジャンル読みが出来るのも魅力的。
例えば人工的に生命を作り出すという点で、本書は世界初のSFと呼ばれることもあるそうです。その辺の細かい描写は少ないものの、あくまで科学の力で怪物が生まれたという点では確かにサイエンスフィクションと呼んでもおかしくないと思います。あと、それよりむしろ、怪物が言葉を習得する過程にどこか言語学SFみたいな読み心地があったりもしますね。
また、怪物が殺人を繰り広げるあたりはホラーやスリラーとしても読めて、どこにいるかも分からない怪物の存在感にハラハラできました。
さらに、枠部分の語り手ウォルトンが未開の地を目指して旅していたり、ヴィクターたちが世界中を動き回りながら話が進むあたりは冒険小説の趣もあります。風景描写も多く、ヴィクターが苦悩も束の間忘れるほどの絶景の数々が印象的でした。

このように、本書は単純にエンタメとして読んでも十分に面白い、それだけの懐の広さを持った作品なんですね。



もちろんテーマ性も、私では読みきれないくらいに多岐にわたり深く描かれています。

ほんとにいろんな読み方が出来るお話で、例えば桜庭一樹氏は、「フランケンシュタイン青年は母を病で亡くした。(中略)悲嘆しつつ、創造主=母にならんとして怪物を産み落としたマザー・コンプレックスの神話」と語っていました。さすが作家さんだけあって私には思いつきもしない視点だったので目からウロコが落ちましたね。

それに比べると私の読みはストレートで平凡ではありますが、以下でちょっとそのへんを書いていきたいと思います。



とりあえず、本書を身もふたもない言い方で表してしまうと、ヴィクターと怪物の不幸自慢勝負なんですね。終盤なんか特に、お互いに憎み合いながら「お前のせいで......」みたいなことを言い合うだけの話になってくんです。
ここでどっちに感情移入するかがわりと分かれそうな気はするんですが、私は実は9:1くらいで怪物くん側に立って読んじゃいました。



ヴィクターくんは、家が金持ちでイケメンで頭良くて彼女もいるめっちゃ恵まれた人間!私も実を言うと似たようなものなので、彼の境遇にはつい自分を当てはめてしまったりもしました。
しかし、そんな彼は探究心から怪物を創り出しておきながら、その怪物の醜さを一方的に憎んでしまう。そして、怪物に家族を殺され、罪のない女中がその犯人として処刑されてしまう。そして、「私があんなもん作らなければ......」と、自責や後悔と、恐ろしい秘密を人に言えないことで病んでいくわけですね。

一方怪物くんはというと、彼はもともと善良な心と人間と同じ知性を持っていながら、その外見の醜悪さゆえに誰も友達になってくれません。隠れ家にした小屋の隣に住む一家を観察し、「心優しい彼らなら俺を受け入れてくれる」と思って友達になりに行ったら長男にボコられ、溺れていた女の子を助けても誘拐だと思われて発砲されと、散々な目に遭います。

で、この2人、どっちが不幸よ?って言ったら、私はどうしても怪物くんだと思うんですね。
片や、恵まれた環境にいながら自らの過ぎた夢のために破滅した男。
片や、そもそも人の心を持って産まれながら人と関わることすらできぬ、真に孤独な怪物。せめて、知性なんかなければ野生動物としてシマウマでも喰いながら生きていけたかもしれないのに、なまじ心を与えられたがために絶対に手に入ることのない「幸福」というものの存在を知ってしまった怪物くんの悲劇よ......。
でも、じゃあヴィクターが悪者かと言えば、彼も人間のサガとしての探究心に魘されて怪物を作ったわけで、そのことを単に責めることも出来ず、結局どちらが完全に悪いわけでもなく、どちらも最悪の破滅を迎えてしまうあたり、悲劇ですよね。トラジェディーです。
......うーん、でもやっぱり、良心を持ちながら復讐のために人を殺すことでしか生きられなかった怪物くんが悲しい。彼が親指を立てながら溶鉱炉に沈んでいくラストシーンは涙なしには読めませんよね。



......とまぁ、おおまかに書いてみたは良いものの、やはり読む観点が多すぎてまとまりがつかず細かいところを掬いきれなかったので、細々とした感想は以下でトピックごとに箇条書きのような形で書いていきたいと思います。




子供を作るということ

桜庭さんの言う"マザコン"までは考えが及ばなかったものの、ヴィクターと怪物の関係が親子を暗喩したものでもあり得るのはその通り。
被造物を愛せないヴィクターの姿は虐待を、また愛されないゆえに殺人に走る怪物には少年犯罪や非行といった現代にも通じるテーマを重ねることも出来ます。
また、私くらいの歳だとどうしても、「将来もし自分に子供ができたとして、私はその子を愛せるのか?」という問いかけにも思えてしまいます。
はっきり言って、想像するだに恐ろしいですね。自分の遺伝子を持った自分に似るかもしれない生き物が生まれてくるわけですからね。自分のこと自体こんなに嫌いなんだから、自分の子供なんか愛せる自信ねえよ。
たぶん、自分を愛してあげられる人でなきゃ、子供作っちゃダメっすよね。まぁこのへんさすがにかなり脱線ですけど。




生まれて来なきゃよかった

上の項はヴィクター側から書きましたが、怪物の側からするとこれは生誕の災厄ですよね。
愛情や良心といった徳の心を与えられながら、それを使う余地すらないほど疎まれ憎まれる。こんなことなら生まれて来なきゃよかった。知性なんてなければよかった。猫になりたい。そんな気持ちですね。
そこで我が身を省みると、怪物くんよりはイケメンに生まれてきたし他人も喋ってはくれるものの、誰にでも出来るようなことが何も出来ないし非常にノーフューチャーみが強いので、ああ、死んでしまいたい。いや、死ぬのは怖いし、そう、生まれて来なければよかったのに!......ということを毎日108回ずつ唱えて生活しているので、「なぜ私を作ったのだ」という気持ちにはとても強く共感できてしまうんですね。生まれてきてしまったにも関わらず、幸せを手にする権利がハナからないわけですからね。
「産んでくれなんて頼んだ覚えはねえ!」なんて中学生みたいでダサいから口に出しては言わないけど、本音はそれでしかないですよね。
何不自由ない環境で親に愛情を注がれて育ったはずの私ですらこんな体たらくですから、怪物くんの苦悩は本来計り知れぬほどのもの。それを繊細な描写で真に迫って追体験させてくれる本書はやはり素晴らしい小説なんだと思います。




悲惨な殺人事件

そんな悲しい背景を持った怪物くんですから、後にあまりにも酷い連続殺人に手を染めてしまうことも致し方なく思えてしまうんですね。
だって、私は人を殺さないけど、それは彼のような最悪の経験をしたことがないからであって、同じ立場に置かれたら私だって絶対やってる......と、そんな確信すら抱いてしまうくらい真に迫ってるんですよ。

で、これってごく近年の悲惨な事件に対する我々傍観者の在り方にも関わってくる話だと思うんですね。
もちろん、悲惨な大量殺人事件の犯人を擁護するわけではないんですが、かといって部外者が善悪二元論的に「お前が死ねよ人殺し」みたいなことを正義のつもりで言うことにも違和感があります。
恵まれた人間に、恵まれない人間の罪を手放しで断罪する権利があるのかどうか......本書を読んでいて1番考えさせられたのはそんなことですかね。
少なくとも、その罪の理由を考えようとすることが、自分が同じような悪鬼にならないために必要なのではないかと思います。私にしては堅くて妙に説教臭いけど。




ウォルトンとヴィクター

最後に、ヴィクターと怪物の2人の物語であるはずの本書で、ウォルトンという語り手がわざわざ配置された意味について。

まず一つは、主役の2人の死を看取る役割、でしょうか。
罪や憎しみを背負い、不幸のズンドコに陥った2人にとって、死とは避けられない残酷な運命にして最後に残された唯一の救いでもあるわけですから、そんな彼らの最後を看取る役はやっぱ必要だったんじゃないかと思います。

また、作品と読者の繋ぎのような役割もあるんでしょう。
家族を故郷に残して探求の旅に出たという似た境遇の2人。ヴィクターはウォルトンの中にかつての自分と同じ危険な情熱を視ます。そして、彼に対する教訓として身の上話をはじめます。
ウォルトンという、物語が対象とする模範的な聞き手がいることで、このあまりに多角的に読める物語の受け取り方に一つの指標が作られます。
また、この物語をウォルトンに遺したことが、ヴィクターと怪物の残酷すぎる人生の存在意義にもなっていて、そのことが読者にとっては一つの救いにもなっているように感じます。

あとこれは余談ですが、ホラーファンとしては、あのラストシーンは映画だったら絶対続編作られそうな気がしちゃいますよね......。



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えー、そんなわけで、まとまらないままダラ長で書いちゃいましたが、まぁそれくらい一言では言い表せない作品ということで......。
まさか、100年どころか200年も前の小説がこんな面白いとは思わなかったっていうびっくりが大きいっすね。知名度の割に実際に読む人も少ない気はしますが、オススメです!
そんじゃ、ばいちゃ!