偽物の映画館

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道尾秀介『向日葵の咲かない夏』読書感想文

道尾秀介原点回帰と呼ばれた『いけない』が、原点回帰というよりは原点のセルフパロディを含む新境地という感じだったので、実際に原点を読み返してみました。


そう、今回私が本作を読むのは2度目。
とはいえ、初めて読んだのは中学生くらいの頃だったと思うので、難しくて理解できなかったのもあるし普通に内容忘れててなんか蜘蛛が出てきたよなぁくらいしか覚えてない状態で読み始めました。
ただ、読んでいくとやっぱりキモの部分のネタは思い出しちゃったりとかしたんですけど、それでもやっぱり面白かったのは大仕掛けだけに頼らない細かな技巧の巧みさと、文学作品としても読める内容の濃さのためでしょう。

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)


小学四年生のミチオは、学校を休んだクラスメイトのS君の家にプリントを届けるように頼まれた。S君の家に着いたミチオは、そこでS君が首を吊っているのを発見する。しかし、その後S君の死体は消失。
そして、S君はとある生物に生まれ変わってミチオの前に現れた。ミチオと妹のミカ、そして生まれ変わったS君は、事件の謎を探り始めるが......。


そんなわけで、再読でもめちゃくちゃ面白かったんですが、なんせこういう作品なのでネタバレなしには語りづらいところがありまして。
なので、まずはネタバレなしでざっくりとした本書の魅力を紹介して、その後でネタバレ感想を書いていきたいと思います。



はい、ではネタバレなしver。

まず本書に通底する大きな魅力が、その忌まわしい雰囲気
プロローグで4歳の妹が死ぬというシーンが描かれますが、ここの妹の大人びたセリフが早くも強烈なインパクトを残し、これから始まる物語がなにか忌むべきものであるという感覚を読者に植えつけます。
本編では、タイトルにある向日葵に象徴されるような日本の夏の光景から、また学校が出てくることからも、ノスタルジックな雰囲気が漂います。しかし、同時にヤバそうな少年の首吊りや、巷で起こる犬猫猟奇殺害事件といった忌まわしい出来事も起こるため、ノスタルジックさすらも暖かさではなく不気味さの方向に働いちゃって、めちゃくちゃ怪奇で幻想で邪悪なフンイキあるんすよね。
でも、雰囲気はムンムンだけど語り手が小学生だから文章は平易で読みやすく、わりと一気に読めちゃいました。

ミステリとしては、これはもう凄いっすね。
まず、真備シリーズとかにも顕著ですが、この人の初期作の伏線の量ったら凄いです。
全ての文章がとまでは言わないまでも、全てのページに伏線やヒントがあるくらいな仕掛けっぷり。それだけに、部分的に分かりやすくなってしまうきらいもあるものの、全てを見抜くのは難しいと思われます。
あと、もひとつ凄いのが、ファンタジー的な設定ではありながらも、その設定の上での論理性がしっかりしていて、トリッキーなだけではなくロジカルな本格ミステリとしても良く出来ている点ですかね。
トリックもロジックも、さらには雰囲気もまとめて楽しめる、そんな傑作ミステリです。

......というだけでなく、小説としても魅力的に過ぎます。
詳しいことはかけませんが、心に闇を抱える子供達の姿には、鬱屈とした気持ちを抱いたことのある人は案外共感できてしまうものではないですかね?
実際、私もピュアな中学時代には単純に「なんだこれ気持ち悪い話やなぁウケる〜〜🤣」くらいにしか思っていませんでしたが、今読んでみるとすごく主人公たちに共感できてしまって、道尾先生ミステリ界の西野カナやん!って思ってる。

てなわけで、ミステリとしても小説としてもド傑作な本作。暗くて気持ち悪くてエモいお話が好きな人、またどんでん返しが好きな人はぜひとも読んでみてください!


というわけで、以下ではネタバレありでちょっと感想なんかを書いていきたいと思います。





























はい、てわけでネタバレ感想に移ります。



まずは何と言ってもあのどんでん返しがすげえっすよね。
ミカちゃんが3歳の割にめちゃくちゃ知能が発育してるから「この子、ミチオの別人格なんじゃね?」くらいまでは分かっちゃうかもしれません。しかし、そこからミカ、おばあさん、スミダさんまでみんな生まれ変わり=ミチオの妄想だったなんていうエゲツないぶっ飛んだオチまではなかなか予測できないでしょう。
ただ、凄いのが、このちゃぶ台返しみたいなトリックがアンフェアには感じられないところなんですよね。
詳しい解説は色んな人がやってるから省きますが、主人公の一人称で叙述トリックを仕掛けているにもかかわらず、そこに必然性を用意してるのが上手いっすよね。
また、伏線やミスリードが質量ともに凄い。"生まれ変わり"であることが隠されている人たち(?)の登場シーンは全て伏線のようなものですからね......。

あと、心理的な伏線としては、S君の書いた作文も素晴らしいと思います。
希望を持たせながらそれを奪う悪い王様の物語は、S君とクラスで唯一普通に話しておきながら「死んでくれない?」なんて言っちゃったミチオa.k.a地獄キチガイ腐れ外道祭文野郎の姿と重なって、彼が自殺したことに強い説得力を与えています。さらに、蜘蛛になったS君はミチオの妄想の産物に過ぎなかったわけですが、それでもこの作文の存在によって本当の「S君」という人間の肖像もまた読者に強く印象付けられます。

また、キャラクターの印象で言えば、他にも泰造老人や岩村先生、ミチオの両親といった人物は"生まれ変わり"ではない実在の人物であって、彼らの闇もまたかなり掘り下げて描かれているために、本書全体に対する「結局妄想オチやん!」というガックシ感が少なく、妄想部分を差っ引いたとしてもなお物語としての骨がしっかり残るのも凄いです。


そして、「妄想部分は差っ引いても」なんて言いましたが、もちろん妄想の部分が差っ引けないほどに物語の根幹であり、妄想というものを使ってリアルに人間を描き出しているところには、ただの叙述トリックミステリに留まらない文学としての風格すら漂います。

そもそも、妄想というものは規模を問わなければ我々の日常に普通に潜んでいるもので。そりゃ、「自分のせいで妹が死んでしまったから妹が生まれ変わったことにした」なんて経験のある人は滅多にいないでしょうけど......。例えばちょっとした失敗を何か別の人やことのせいにしてみたり、或いは気になるあの子が俺のことを好きな状況証拠を集めて恋のサクセスストーリーを脳内に描いてみたり、あの日あの時ああしてたらって祈り呪ってみたり、今の記憶を持ったまま子供の頃に戻れたら......なんて考えてみたりすることは誰だってあるでしょ?
あまりに規模は違うけども、そんな些細なことでも経験があれば、本書のミチオくんの心情にも結構すんなり入り込めてしまう、そんな恐ろしさがあるんですよね。
また、細かいエピソードでも、S君の瓶の中に女郎蜘蛛を入れちゃうような残酷さなんてのもまた誰しも持ってる(はず)ものでしょう。あのシーンを読む時、ミチオの残虐さに引いてもいいはずが、ついミチオに共感して読んでしまったのは私だけじゃないはず。些細なことでもイラっときた時に「こいつあれあれこうこうこうしてぶち殺してやりてえ」なんて思っちゃうこともあるわけで......。
そんな風に、本書は一見どちゃくそサイコパスな少年がハチャメチャやらかすサイコスリラーなんですけど、どこか分かってしまう、ミチオの心情にも共振してしまうところがある、それこそが恐ろしくも気持ち良い、そんな作品なんですね。

僕だけじゃない。誰だって、自分の物語の中にいるじゃないか。自分だけの物語の中に。その物語はいつだって、何かを隠そうとしてるし、何かを忘れようとしてるじゃないか

ミチオのそんな言葉が印象的ですが、その言葉通り、本書における物語患者はミチオだけではありません。S君は怖い童話を描きながら人助けのために犬猫を殺し、泰造爺さんは幼少期のトラウマを拗らせて怪奇・脚折り男に変身してしまい、ミチオママはお人形さんごっこして、ミチオパパはそんな異様な家庭を見て見ぬ振りをしている。
そんな風に、本書では誰もが妄想や嘘や幻想の中にいて、それは他の道尾秀介作品でもそうですが、そんな彼ら全員をミチオが殺しているというのがまた面白いところ。
「物語をつくるのなら、もっと本気でやらなくちゃ」というミチオのセリフを聞くと、もはや本書が「物語」というスタンドを使って戦う異能バトルアクションにすら思えてきてしまいます......。

そして、最後の最後の数行で見える異様な光景がまた凄い。
両親と仲良く話しながら歩くミチオくんの足元には「長い影が一つ」伸びています。言うまでもありませんが、つまりパパママはまたしてもミチオの妄想による"生まれ変わり"で、彼は生まれ変わった家族とともに親戚との待ち合わせ場所へと向かったのです。
しかし、この場面でお母さんが「ほんとに一人で平気?」といっているのが引っかかります。もちろん外から見ればミチオは一人であるわけですが、彼の物語の中では今は一家が揃っている場面。そこでママが「一人で平気?」と聞くっていうのは、ミチオが物語の彼らと今度こそ決別しようとしているということなのでしょうか。
ちなみに、最初読んだときは「ミカも連れてるのに『一人』ってどういうこと?」と思ったのですが、これはお母さんがトカゲのことをミカと認めていない状態で脳内再生されているからなのでしょうね。

で、本書の本当のエピローグは、プロローグにあたる冒頭の2ページの場面でありまして、そこを読むと、この出来事の一年後にミカ(=トカゲ)が死んだことが明かされています。ミチオがその遺骨を大事にとっておいていることから、恐らくその後生まれ変わりは起こらなかったんだろうと推測されます。
そういう点では、子供の頃にだけ見えた友達ってことでトトロとか千と千尋みたいな余韻と言えなくもないですね。
尤も、ミチオくんの場合はいつ"再発"するやもしれぬという不気味さを持ち続けていますが......。


最後に、その他いくつか気になった点について。


まず、ミチオくんの真名の苗字が仏陀の母の摩耶夫人と同じ名前ってところ。
わざ〜とらしく終盤で明かされたので絶対に何か深い意味がありそうと思って調べてみました。
まず、仏陀の母である摩耶夫人という人(?)は仏陀を生んだ1週間後に亡くなって、その後どっかに転生したってWikipediaに書いてあります。
本書でも転生は"1週間後"に起こるという類似点がありますね。ミチオくんは自分の苗字について調べて見るうちにこのことを知って、自らの物語に「1週間後の転生」という設定を作ったのかな、なんて思ったり。
それから、人名としてではなく概念としてのマーヤーというものがあるらしく、そちらは幻影とか幻力などと訳されるものらしいです。これも、本作の現実と幻想の入り乱れる内容に合致しています。
どちらもWikipediaでざっと調べただけなので他にも何かあるかもしれませんが、こういう含意みたいなものが込められているのも面白いですよね。


それから、ラストシーンの両親の姿。
最後に両親が生まれ変わったなら、彼らはどんな姿をしていたのか?作中ではミチオくんはお父さんのことをカメ、お母さんはカマキリに生まれ変わりそうと言っているので素直に考えればその二つの生き物でしょう。
ただ、火事があってからの1週間で葬儀やらなんやらと忙しかっただろうに、カマキリはまだしもカメなんてそう簡単に見つけてこれるやろか?という感じもします。
その場合、両親はもしかしたら何にも生まれ変わっていなくてミチオの頭の中だけにいる存在だったのかも......なんて想像もしてしまいました。
あるいは、引っ越し先に持っていくための両親の遺骨、とか......だとしたら、怖いっすね......。
まあ、この辺はたぶん明確な答えはないと思うので読者が思い浮かべたものが正解なんでしょうけど。


最後に、本作のタイトル『向日葵の咲かない夏』の意味。
これも作中でのはっきりした言及はないので想像するより他にないですよね。

まず、作中で蜘蛛のS君が、死ぬ間際に見えた向日葵のことを神様のようだったと語り、向日葵に「蜘蛛に生まれ変わりたい」と頼んだ、という記述が出てきます。
そんな向日葵が咲かないということは、生まれ変わりは現実ではないという、本書の結末を暗示するタイトルなのかな......という想像。
それから、向日葵が咲かなくなる原因として、泰造はアブラムシがついて養分を吸い取っちゃうからだと語ります。これは妄想やトラウマに冒されてダークサイドへ落ちていってしまう本作のキャラクターたちに重ならなくもありません。
あるいは、夏なのに向日葵が咲いていないっていうこと自体の非日常的な不気味さ、そういう不穏な空気感自体をタイトルに閉じ込めたかった、というのもあるかもしれません。
どれもそれらしくもあり、クリティカルではないような気もしますが、私が思いついた"タイトルの意味"はこのくらいかな......。



というわけで、長くなりましたが、こんな感じで本作の感想を終わりたいと思います。
今回本作を読み返してみて、やっぱ再読って大事だなと思ったんですが、とはいえ新しく読みたい本も多く、本を読む時間は減る一方。まぁ年1とかでも思い入れの深い作品を読み直せたらなぁと思う今日この頃の俺だ〜〜。
んじゃ、お後がHere We Go!!