偽物の映画館

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トマス・H・クック『緋色の迷宮』読書感想文

とある田舎町で、8歳の少女エイミーが突然姿を消した。
写真屋を営む"わたし"ことエリックは、息子のキースが少女を拐かしたのではないかという疑念に駆られる。その疑念はやがて、現在の妻と息子から過去の父母や兄妹まで拡散し、よく知っているつもりであった彼らへの信頼を蝕んでいき......。


緋色の迷宮 (文春文庫)

緋色の迷宮 (文春文庫)


ハマっちゃって3冊目、クック大先生です。

今まで読んだ2作よりも近年の作品で、そのためかどうか知りませんが、めちゃくちゃ読みやすかったです。
いつも通り、過去現在未来を貫く立体的な物語ではあるのですが、しかし本作では「少女の失踪事件が起こった時点の主人公エリックの語り」がほとんどで、そのなかで時々過去が物語られたりするだけなので、時間の行き来が少なく読みやすいです。
その分フォーカスの当たる人物は多かったです。父と母、飲んだくれの兄と、幼い頃に亡くなった妹。そして、美しく聡明な妻と、何を考えているか分からない息子......といった具合に、裏表紙のあらすじにあるように「自分を作った家族と、自分が作った家族」のそれぞれに対して、身近なつもりでいて実は何も知らなかったのではないかという疑念に駆られていくわけです。
少女の失踪自体はわりとフィーチャーされず、そのことから生まれる主人公の苦悩を生々しく切り取るという点で、やはり非常にクックらしい心理描写に特化したミステリになっています。

また、各章の初めに挿入される主人公の独白とは違う短い文章は何なのか?、"最後の死"とは?、"ニュースまでには帰る"と言ったのは誰か?、などなど、冒頭から思わせぶりな謎かけが連発されて読者を一気に引き込みます。
著者の作風は「雪崩を精緻なスローモーションで再現するような」と評されているとどこかで読みましたが、言い得て妙。本書なんかはその典型で、崩れることが分かっているからこそ、いっそ早く崩壊を見届けて安心したいという気持ちから一気に読んでしまいます。

そして、本作の最大の見所は分からないことの怖さ(不安)にあると思います。
とにかく、主人公には何も分からない!笑
今まで読んだクック作品では、全てが終わった後で主人公自身が情報を小出しにしながら回想するような書き方がされていましたが、今回は主人公も何も分からない。だからこっちも不安になるんですよね。
だから、例えば『夏草の記憶』では「諦念」や「絶望」の色が濃かったのに対し、本作は「疑惑」「不安」なんですよね。そういう意味では邦題の"迷宮"というワードもわりとぴったりかも。
で、読み進めていくといくつかの点については読者にはすぐに想像がついてしまうんですね。ついてしまうのですが、それだけに「早く気づいてよ!」というもどかしいハラハラと、「でも本当にそうなのか?」という不安でページをめくる手が止まらなくなる......。こういう点から、心理描写ばっかの作品なのに、非常にサスペンス色が強くなっているのが巧いなぁと思います。

また、本書はもはや名言集として手元に置いておきたいほどに、人生を言い表す名言が豊富に含まれています。
特に、生前の妹ジェニーが言う、人間に能力の差があることについての「なんて悲しいことなのかしら/それはその子たちの責任じゃないないのに」という言葉。冒頭で出てくるこの言葉が後の物語の中でも時折ふと思い返され、最初から故人で出番のほぼないジェニーの存在感が物語全体にふわ〜っと溶け出していきます。
他にも、家族や身近な人間に対する人間のあり方についての箴言に満ちた傑作なのです。

ちなみに、結末は物語としては意外な展開ですが、ミステリ的な意外性はほとんどないので、そういう点にはあまり期待しすぎず心理サスペンスとして読むのが吉ですね。




それでは以下ネタバレで全体の感想を〜。





















さて、この結末は凄いですよね。
ネタバレなしの感想の方で、本作の最大の魅力は分からないことの恐怖だと書きましたが、そこから派生して、分からないからこそ思いどんどん根拠のない思い込みを膨らませてしまうというのが本書のテーマだと思います。
終盤に至るまで、主人公のエリックの視点から、「父の言うことは本当なのか?」「妻が不倫をしている?」「兄は妹を強姦した?」といった、主観的には事実に見えるようで実は根拠が薄弱な想像が繰り広げられていきます。一歩引いて客観的に見れば必ずしもそうではないことは分かるのですが、読んでいる間は主人公に感情移入しちゃってるから彼の根拠のない思い込みにもかなりの説得力を感じてしまうのが巧いです。そして、主人公が最後にちょっと客観的になって、息子とはじめて向き合って会話した矢先............!という、、、。
ここにきて、少女の父親が、今まで主人公が捕らわれていたのと同じような思い込みーーキースが娘を犯して殺したーーに捕らわれていたことが分かります。そして、主人公はそれから逃れられたけれど、逃れられなかった者の末路は、まるでとある有名な胸糞映画のようなやるせないものになってしまうのだと......。
この、加害者と被害者が反転しつつ、その心の中に同じ闇があったという構図、これはもう間違いなくどんでん返しであり、意外な結末ですよね。
しかし、どうにもやりきれない話でありながら、最後の最後、「おまえ」に語りかける二人称の手記調のパートで、それでもあの出来事を整理して生きていこうとする2人の姿に、つらいんだけど、後味は爽やかにすら感じられます。
最後のエリックの「終わりから始めよう」という言葉が、もちろん今から語る物語(=本作)のことではありながら、これから新たに歩んでいこうという決意にも感じられて深い余韻に沈みます。ここ、翻訳はこうですけど、英語でも同じようにダブルミーニングになってるんですかね?なんにしろとても綺麗な訳ですよね。

と、いうわけで、人間心理の奥の奥、しかし普通に生きる我々にもどこか共感できるところを抉り出し、息もつかせぬ展開とどんでん返し、感慨深いラストに至るまで圧倒的に面白い傑作でした。