偽物の映画館

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夏目漱石『こころ』読書感想文

昨年は中学時代に読んだ太宰の『人間失格』を再読して「こんなに面白かったのか」と蒙が啓かれたので、続いて同じく中学時代に読んだこの作品を再読してみました。

大正3年に書かれた小説で、作中の時代も明治から大正に移る頃です。平成も終わる今からしたら随分古い小説ですが、読んでみてびっくりするくらい引き込まれ、今尚読み継がれているのも納得いく面白さでした。

(ネタバレ云々の小説ではないと思いますが、モロに内容に触れているので気になる方はご注意を......)

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)


あらすじ

語り手の「私」は、鎌倉で出会った高等遊民の男性を先生と呼んで慕うようになります。先生は妻のと二人でひっそりと暮らしています。「私」に対しては心を開いているようでいて、「恋は罪悪だ」「私を信じてはいけない」などと闇を感じさせるようなことを仄めかします(上 先生と私)
やがて「私」は父が倒れたと言う知らせを受け、田舎へ帰ります。案外元気だった父の様子は、日を追うごとに悪くなっていきいよいよ......という時になって、先生から長い長い手紙が届きますその手紙は、先生の遺書でした。(中 両親と私)
先生は学生の頃、Kという友人と親しくしていました。Kに尊敬の念を抱く先生でしたが、やがてKが自分と同じ人に恋していると打ち明けられ苦悩します。そして先生のとった行動とは......(下 先生と遺書)


リーダビリティ

この作品はよく「ミステリーみたい」と言われています。
それの理由は、「上」の章での先生という人の仄めかしの巧さのためなんですよね。「私なんかゴミだよ」「恋愛なんかクソだよ」とかいう仄めかしツイートを連投しながら具体的なことは言わない元祖メンヘラツイッタラの先生に対し、読者は「もったいぶってねえでさっさと何のことか言えっ!😡」という苛立ちが混じった好奇心を抑えられなくなります。
こうやって「先生が自殺したのは何故か?」「先生の過去の恋愛事件とは?」「先生の墓参の意味とは?」という謎をここで提示し、「下」でその答えが明かされるのが、ミステリでいうところの問題編/解決編のようなんです。
そして、そんな強烈な引きがあるからこそ、100年も前の小説なのに今読んでも読みやすく引き込まれる物語になっているのです。教科書に載ったり名作と言われて堅苦しい感じがしますけど騙されたと思って読んでほしいですね。


さて、それでは内容についてたらたらと書いてみます。いつものことですが解説とか考察とかいう小難しいことは書けないので読んでて思ったこととかを適当にゆるりと語っていきます。


この小説のテーマって家族とか人間の孤独さとか自殺とか学問とか色々あるとは思うんですけど、やっぱり一番分かりやすいところに据えられているのが「恋愛」でしょう。そこで、まずは非モテ恋愛弱者ゴミクソ野朗がこの小説を恋愛小説として読んだ感想を。

恋愛小説として見るなら、本作は、先生とKが共に静(お嬢さん)を恋してしまう三角関係モノです。
時代柄か、登場人物の恋愛観がやたらと重くて、現在だったらこのくらいの三角関係なんかザラにあるのに、彼らはめちゃくちゃ悩んでます。モテ界隈の方にはこの重さ分からないと思うんですけど、私くらいモテないとこんな感じになっちゃうの凄く共感できます。恋愛っていうのは下手なやつほどのめり込んでしまうのです。だから、当時の感覚は知りませんが、今現在にこの小説を読むなら断然非モテの恋愛弱者の方が共感できるに決まってるんです。重くてモテない男子はもうドンピシャだから必ず読むよーに!


で、本書が恋愛小説として面白いのが、読者の判官贔屓を利用して感情移入の対象を二転三転させることでありがちな三角関係をスリリングに描いているところです。

「下」の先生の遺書を読んでいくと、先生視点で描かれているため、当然先生の立場から読み進めることになります。すると、Kが登場するあたりから、自分より優れた人間である(と先生は確信している)Kが自分が恋うお嬢さんと少しでも関わると嫉妬しちゃう先生に「分かる〜」が止まらなかったです。
バカみたいな話ですけど、こういう嫉妬って明治大正の御代から平成が終わる今日までなんにも変わってないのですね。
たぶんKとお嬢さんの側からしたら本当に何でもないことまで全てあいつらがデキてる伏線に見えてしまって、ちょっとでも違うっぽい証拠を見つけるとはしゃいじゃうけどまた「いやまてよ......」と疑心暗鬼に陥る......という絵に描いたような一喜一憂ぶりに感情を乱されっぱなしでした。斯様に側から見たらどうでもいいようなことに敏感になっちゃうのが恋というものなのです。

しかし、ここまでは先生に対して「分かる〜」だったのが、先生の"裏切り"以降は視点だけ先生側に置きつつ感情は一気にKの側へ引き寄せられてしまいます。
ここがなかなか難しいところで、この文章はあくまで先生の遺書であり、Kの気持ちはもはや推測するより他にどうしようもないのです。ただ、少なくとも私だったら、友達に恋愛相談したら親身に話聞いてくれたはずなのに実は騙されてましたなんてことになったらそれこそ死にたくもなりますよ。ここで一気に「分かる〜」がKに対するものになるわけです。

しかし、更にその後、先生の悔恨と(幸せの中にすらある)絶望や孤独がどろどろと描かれていくに従って、私の気持ちもまた先生側に引き戻されてもはや恋愛云々というよりも「人生つらいよね分かる〜」というどうしようもなくしんどい共感へと変わっていきます。

このように、感情移入の対象がころころ変わりながら、恋のつらさがやがて人生のつらさへと膨らんでいくのが恐ろしくも刺激的でした。



自殺

Kは密かに恋い慕っていたお嬢さんを親友である先生に取られて自殺してしまう。また、現在に視点を戻すと先生はKはの罪悪感から同じように自殺する......というのが、我々が教科書で習った『こころ』ですが、彼らの自殺の理由がこうした色恋沙汰だけかと言うとそうではないように見えます。

それがこの小説の深いところなんですよね。畢竟、人の自殺する理由なんて当人にしか、いや当人にも分からないものかもしれません。が、分からないながらもこちらがそれを読み解くためのKeyは色々と配置されているので、「彼らはなぜ死んだのか?」という大きな謎に読者がいつまでも悩めるようになっているわけです。

私が読んだところでは、まずKが死んだ理由は「道」を外れてしまったからなのかなぁと思います。
作中でKの性格について求道者的な面が強調されています。そんなKにとって恋愛というものは軽蔑すべき弱者の遊びであるはずでした。しかし、彼はお嬢さんに恋をしてしまいます。
そこまではまだいいとしても、その後、お嬢さんを先生にとられた時に、Kは「失恋」してしまったのでしょう。失恋の苦しみを味わうということは、自分が完全に恋に落ちていたということ。
Kは日頃から「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言っていましたが、自分がその「馬鹿」になってしまったこと自体への苦しさがあったんではないでしょうか。その証拠に、Kの遺書には「もっと早く死ぬべきだったのに......」という意味の内容がありました。
お嬢さんをとられたことで自分が道を外れたことを改めて突きつけられたからこそ、Kは死んだのではないかな〜と思いました。





一方、先生が死んだ理由はより曖昧ではっきりしないですね。
これはもう遺書に書かれているように、Kへの罪悪感や奥さんに理解されないことへの絶望や明治への殉死など、「たまたま色んな要因が重なったから」としか言いようがないように思いますが、その中の1つとして、「遺書の宛先(=「私」)を見つけたから」というのもあるように思います。だからこそ、本作のメインに見える三角関係に全く関係のない「私」という人物が語り手として作中の3分の2ほども費やして描かれているのではないかな、と。
というわけで、以下で先生の遺書と「私」について書いてこの感想文を終わることにします。





遺書と私

先生は「私」に対して「自分のようにはなって欲しくない」と思っているように見えます。しかし、それでも「私」からの買い被りのような執着が止まないことに罪悪感を覚え、「私」に遺書を出したのかなと思いました。
簡単に言ってしまえば、まだ世間を知らないけれど大学生になって(「私」の父の言によれば)「理屈っぽく」なった「私」に、自分の失敗を伝えることで同じ道を歩まないように釘を刺すような意味合いでの遺書なのかな、と。つまりはアレですね、先生の正体とは、しくじり先生だったわけです!
穿った見方をすれば、先生は「私」に自分の中の情念をぶつける遺書を書きたいがために自殺したような感もなきにしもあらずな気もします。

というわけで、個人的にはこれは、人生の酸いも甘いも知らない「私」が先生の物語を読んで人生を乗り越えていく......のか?という話で、「私」のその後が描かれていないことから一種のリドルストーリー風な(「私」は先生のようになるのか、先生を反面教師として幸せな人生を送るのか的な)味わいもあると思います。

ここからは『こころ』に直接関係ない自分語りなので飛ばしていただいてもいいんですけど、最近自分にとって物語を受容ことの意味が変わってきたなぁと思う今日この頃です。
昔は純粋に娯楽だったのが、一年前からは共感重視に、更に最近は人生の予行演習のように体験したことのないことを体験する機会としてお話を摂取する側面が強くなってきてる気がします。もちろん、あくまで娯楽として楽しむことが最優先ですけどね。
ともあれ、そんな最近の私にとって『こころ』で「私」が先生の遺書を読むことは、自分が小説を読んだり映画を観たりすることに通じるような気もするなぁ、ということが言いたかったわけです。はい。



というわけで、いつも通りまとまりがない文章にはなりましたが、リーダビリティ高くエンタメ性もありつつ、恋や人生の予行演習の役割も果たしてくれる、名作と呼ばれるに相応しい作品でした。